そして、シャツを血まみれにして店を出たAは、次に、強精剤を中心に扱う薬局に入った。余命がわずか、出血で体重が軽くなっていた彼だったが、もともとの体重が重かったためか、自動ドアは体重に機敏に反応して彼を受け入れた。
「薬局に入れば応急処置をしてもらえるのではないか」遠のく意識の中で、Aは冷静に考えようと努めたはずだった。しかし、残念なことに、この手の薬局は精力を強くすることに特化しているため、ケガなどを処置する包帯すら置いていないのが通例である。薬局のE店長は、それにも関わらず、Aを助けてやりたいという強い気持ちに襲われた。もともと通常の薬局を経営していたが、立ち行かなくなって、やむなく強精剤専門にしたというほろ苦い過去を、飛び降り自殺中に現れると言われている走馬燈のごとく一瞬のうちに振り返り、「これこそわが仕事なり」と思ったのだった。しかしEの考えは浅はかなことこの上なかった。この薬局では、夜の生活における悩みの特効薬は提供できても、瀕死の人間を救うことはできない。このような場合はやはり、救急車で病院に運ぶのが一番のはずだ。しかしEは包帯もないのに血まみれの男を助けようと自ら奮闘する道を選んだのだった。とりあえず止血、と思った彼は慌てて体に巻きつけるものを探した。そこで見つかったのが漢方薬化される前の生きたハブ。これを巻きつければ血が止まるのではないかと思い、Aに向かって投げ、巻きつかせたのだが、にわかに人のところへ放り投げられ、しかも好きなタイプではない―一般的にヘビが好きな人間のタイプはワキガが臭い人間で、彼は足の匂いはともかく、ワキは無臭であった―ため、Aは、Iという名前に変えた方がいいのではないかと思えるほど締め付けられてスリムな形状にされ、あえなく出血多量で絶命してしまった。
「人生はゲームみたいなもの。ゲームのように刺されたらゲームのように死んでいこう」という決意ができなかったAのように、何とか助かる道を選ぼうとする人間の立場からすると、「秘蔵の脾臓」という冗談は、冗談ではすまされるはずもない。その気持ちを「前世紀の遺物」と一言で片づけてしまうことも可能だが、それではAが浮かばれない。常識的に考えると、「秘蔵の脾臓」という冗談を医者が言いたくなった場合は、一聴しても駄洒落とわからないやり方でごまかしておく方がよいのではないか。
ここで登場するのが、先述の駄洒落の定義で、駄洒落は一文字二文字の重複だとそれと気づかれないが、これを逆手にとる。「そんなことは言わない」の「い」を「胃」とかけておけば気づかれることはない。ただ、「秘蔵の脾臓」をがまんするために、「消化器官の四番バッター」と絶賛されている胃を取り出すわけだから、細心の注意が必要になる。胃を切除したことがばれないように、うどんや綿菓子など胃がなくても食べられるような食べ物をさりげなくすすめるなどしたいものである。

Aが歌舞伎町を闊歩していたのと時を同じくして、Bも歌舞伎町を徘徊していた。BはAと違って、歌舞伎が、国家的な弾圧を受けて形を変えてきたという程度のことは聞きかじっていたが、それ以上の知識はなかった。彼はゲームばかりしており、歌舞伎の歴史知識もゲームから得たものにすぎなかった。ゲームの名前は「歌舞伎物語」。コンビニエンスストアで買えるゲームで、内容は、主人公が歌舞伎を演じていると、岡っ引がそれを弾圧しにくるのだが、役者は「歌舞伎を演じているのではないですよ」という感じで頭をかいたり縄跳びをしたりしてごまかす。しばらくすると、岡っ引がつまようじで歯の間を掃除するために背を向けるので、その間に役者はせわしなく演技をして点数を稼ぐ、というもの。調子に乗って演じすぎると、岡っ引に見つかってお縄を頂戴するか、激しく演じすぎて平衡感覚を失い、白色のどろりとした液体―歌舞伎にかけて、いつも蕪の煮物を直前に食べるため、白色になっている―を吐いて生命力が大幅に減ってしまう。
Bが「歌舞伎物語」の後に遊んだのが、「歌舞伎物語」と名前は似ているのだが内容は似ても似つかない「歌舞伎町物語」だった。このゲームが犯罪の直接のきっかけになったと考えられている。ゲームの内容は歌舞伎町とは無関係だった。「歌舞伎町という名前をつけたら、ユーザーがエロチックなものを期待して売れるのではないか」という、ゲームメーカーのワンマン社長の思いつきが反映されているだけで、実際はゆで卵をうまく作るゲームにすぎなかった。鍋の中に生卵を入れて、適切なタイミングで引き上げて、ちょうど半熟であれば千点。固くなっていたり、まだ生卵だった場合は負けというゲームだった。このゲームは、隠しキャラクターとして有精卵が用意されていた。有精卵を入れると、「暑すぎるノン〜!」と言って殻が割れて、ヒヨコが出てくるという仕掛けである。しかし、あろうことかBは、さらにそのヒヨコさえも湯の中に沈めてしまった。このゲームの開発者は残虐な描写が嫌いだったので、万一ヒヨコをお湯の中に入れた場合、真っ赤になって「牛ではないが、ンモー!!」と言って飛び上がり、お湯から自動で逃れるようにプログラミングしていたにも関わらず、Bはそれ以上の素早い動きでヒヨコを捕らえ、水炊きになり、うまみが鍋にしみこんでしまうまで煮続けたのだった。
残酷なB。アルファベットのBの柔らかい形状からは想像できない残忍さで、むしろ先の尖ったAと命名したいくらいなのだが、しかもその日は一人でボウリングをしたが目標のスコアに達することができなかった。さらに悪いことに、缶のおしるこの飲みすぎでのどがカラカラになっていた。彼は歌舞伎町をイライラしながらジグザグに歩いていた。それでもジグザグ歩きを繰り返すうち、だんだんジグザグするのが楽しくなってきて、きびすを返す動きもなめらかになり、気分が高揚してきたその瞬間、Aとぶつかってしまったのだった。
「痛てえ!ちゃんと前見て歩けよ!」
Bは持ち前の気の短さで怒鳴りつけたが、Aは言い返した。
「いい大人がぶつかっただけで痛いだなんて…それは『食後のデザートがないから飢え死にする』と言っているのと同じくらい弱々しい考えだ!」
意味不明なたとえ話で怒鳴り返されたBはたちまち頭に血が上ってしまった。
「じゃあこれも痛くないだろう?」
Bは、懐から鋭利な氷柱を取り出してAの胸に刺した。Aの胸からは鮮血がほとばしり、Bは氷柱を捨てて走り出した。「しめしめ、氷はすぐ解ける。凶器は永遠に見つからない。彼は謎の変死を遂げる!」しかし、なぜかBの鞄からはポタポタと水が流れて止まらなかった。不審に思ったBが確認してみると、かばんの中には氷柱が見つかった。
しくじった。Bは焦った。氷柱でAを刺したつもりだったが、実際に彼が使ったのは、氷柱とそっくりな形だが絶対にとけることのない―ただし核兵器が空から落ちてきた場合は、すべてのものがとけてしまうので例外だが―プラスチック製の人工氷柱だった。
人工氷柱を開発したのは、従業員五人ほどの零細企業の社長だった。
「誰が買うんですか…って、最初は従業員にすら笑われていましたよ。しかし、最近の温暖化でしょ?」
テレビの取材に対して社長はしてやったりという表情をしてそう答えた。人工氷柱は新潟など、かつて豪雪地帯だった地域に出荷されている。かつては雪かきの光景が見られた地域も、近年の温暖化によって、雪かきをする機会がなくなり、手持ち無沙汰で寂しい思いをしていたのだが、軒先に人工氷柱をつけることで冬の訪れを感じられるのだ。Bは新潟の実家から興味本位でもらってきた人工氷柱を間違えて凶器として用いてしまったのだった。ほどなくしてBは逮捕された。Bは取調室で「俺も悪かったがゲームが特に悪かった」と供述し、それが活字になって踊り出した。彼の部屋から出てきたのが『歌舞伎町ゲーム』だった。
被害者であるAは、二十一歳の生涯を歌舞伎町で終えることとなったのだが、Bのゲーム感覚の殺人とは対照的に、ゲーム感覚とは到底言えないような最期を迎えた。まず、血が出ていても排水溝とは遠い方向に、むしろ血の赤さを引き立てるために、洋品店のワイシャツ売り場に乱入して白いシャツをつかみ、数十枚のシャツを血に染めた。店にぼんやりと佇んでいた洋品店のC店長は、十日ぶりの客が、助かる見込みのなさそうな血まみれの客で、驚くというよりむしろがっかりしたようだった。形状記憶メガネを愛用していたCは、形状記憶ワイシャツのCMを初めて見たとき「これだ!」と思い、急いで千着分仕入れただけでなく、「このワイシャツが売れすぎたら、片時も受話器を離せないほど忙しくなるに違いない!」と予想し、電話機が持ちすぎで曲がることを恐れて、形状記憶電話機をわざわざ特別にドイツから仕入れたのだった。ドイツの電話機メーカーの極東地域営業担当のDはこれを「形状記憶スパイラル」と呼んだ。しかし、後にも先にもそのスパイラルは一例のみにとどまった。シャツが売れないばかりか、久しぶりに来た客にシャツを台無しにされたCの心中は穏やかではなかったことだろう。

医者も笑えば患者も笑う。最近の患者は以前より、医者の「不謹慎だ」と言われる言動に関して寛容になってきている。その原因はテレビゲームにあると言われていて、ゲーム感覚での人殺しばかりが取り沙汰されがちだけれど、人生そのものをゲームと考えることにより、内臓をゲーム感覚で取り出される人もでてきている。取り出す方もゲームなら取り出される方もゲーム。まれに「芸夢」と当て字されることもあるゲーム。今のところ「ゲームの当て字が芸夢である」というのが正しいとされているものの、千年経ったらどうなっているかは定かではない。もしかしたら「携帯→ケータイ」のように「芸夢→ゲーム」と解釈されるかもしれない。そもそもテレビゲームはアメリカで発明されたけれど、世界一と言えるのは日本のテレビゲーム。後世に「芸夢」が語源とされる説が唱えられても不思議ではない質の高さだ。特に野球ゲームの出来は他の国の追随を許さない。それに対してアメリカの野球ゲームは、選手がガムを噛みながらバッターボックスに立っていた。教育上いかがなものかと思う。ただ、日本においてガムは食べ物だという考え方が一般的なので、「食べながら他のことをするのはマナー違反」と思ってしまうが、アメリカにおけるガムは、食べ物とは少し違ったリフレッシング・ツールか何かなのかもしれない。さすがにアメリカは優雅な国で、食べ物だけでなく、食べ物ではない何かもある。日本人は、『食いしん坊万歳』という番組があることからもわかるように、ガツガツ食べることしか考えていない野蛮人が多いのに比べ、アメリカは、ガツガツ食べることと断食することの間にはさまざまな段階があるようだ。
バッターボックスでのガムの是非はともかく、話をすすめると、アメリカの野球ゲームは、ガムが角張った立方体で表現されていた。日本ではガムを食べながらバッターボックスに立つという行為はよくないとされているが、日本人の道徳観が変わる、あるいはガム観が変わったあかつきにテレビゲーム上で表現されるガムは、美しい球状だと予想される。日本のテレビゲームはアメリカのそれよりも進歩しているのだ。
ゲーム感覚で内臓を取り出されるところに話を戻そう。
世界に名だたるテレビゲーム先進国の日本で、さらに諸外国に比べて進化していると言われているのが「被害者の側のゲーム感覚」。殺人の被害者ですらゲーム感覚なのだ。具体的に言うと、殺された側は、「やーらーれーたー」とゆっくり発音し、排水溝のそばで倒れ、うまく排水溝へ血を流しこみ、血が路上に広がりすぎないように配慮する。血が見えすぎるのはよくないとされている。なぜなら、血をたくさん見ると「あれ?これはゲームじゃなくて…現実?」となってしまうから。万一、排水溝から遠い位置に倒れてしまった場合は、「これは血ではありません。汗です」というごまかし方が必要になってくる。「痛い!」の代わりに「一ヶ月連続の真夏日だって!」と叫んでおく必要がある。これがゲーム大国ニッポンの国民の新しいマナーになっている。
しかし、そのマナーは十分に浸透しているとは言い難い。残念ながら被害者として「ゲーム感覚」を受け入れきれなかったAの例を紹介しよう。Aは、歌舞伎のことをよく知らないにもかかわらず新宿の歌舞伎町を歩いていた。文楽と歌舞伎の区別もつかない男が歌舞伎町を歩く。その行動から、Aがいかに、いわゆる「空気の読めない」男であるかがうかがい知れるというものだけれど、現在、歌舞伎町ではその名称に反して歌舞伎が上演されることはないのだから、その意味では「空気を読めない男が空気を読めない町を歩いている」ということになるのかもしれない。
彼の身なりも、到底人に愛されるものではなかった。何度も洗ったせいで丈の短くなったトレーナーとチノパンの間から背中が常に見えていた。背中には細かい毛がビッシリ生えていて、毛はそれぞれ別の方向を向いていた。歩くたびに毛が揺れて向きを変え、一歩踏み出すごとに別の模様が背中に描かれるのだが、その模様が、あるときはトラが自分の子を食べているシーンだったり、あるときはカレイが汽水域をはるかに超え、体内の浸透圧の調節に苦しみながら体をフグのように膨らませ川を逆流するシーンだったり、いたたまれないものばかり。ただ、背中の毛の流れに何を見いだすのかというのは、ロールシャッハテストのようなものなので、むしろ不快なのはそれらを見出したわたしの精神なのかもしれない。少なくともわたしとAの相性は、あまりよくないだろう。

世界ナントカ協会の恐ろしさ

東京都央央区―わたしは今、とびきり粋な名前の区に住んでいる。人にそう言うと「東京二十三区の中に央央区なんて名前の区はないんじゃないか」と言い返されることが多い。しかし、二十三区を数え上げてみると、誰しも五〜六区くらい思い出せない区があるはずで、その中の一つに央央区があると思えば問題ないだろう。それでも納得がいかないのであれば、今度は自分の体について考えてみればいい。人体の臓器を表すのに五臓六腑という言葉があるけれど、大部分の人は、心臓、肺、胃、大腸、小腸…このあたりで挫折するに違いない。自分の体ですら、すべてを把握するのはなかなか難しい。人体についての理解を深めるために、ひとまず脾臓など普段話題にのぼらない存在にスポットライトを当ててみよう。脾臓を悪くするような食べ物を皆が積極的に口にし、脾臓のありがたさを知るようにすれば、脾臓の存在感を浮き彫りにすることができるのではないか。たとえば、甘辛いものは脾臓を蝕むと言われている。また、熱くも冷たくもない食べ物もよくない。つまり脾臓にはどっちつかずのものを受け入れると、左右に震える性質があり、多少の中途半端さなら、小刻みに震える程度で、「可愛くて、身体の外に出してポーチか何かみたいに携えるとオシャレかも」と思えるのだが、「手打ち風うどん」「ピザ風焼きもち」ほど中途半端になってくると大きく揺れ、千切れてしまう場合もあるそうだ。中途半端なものは口にするべきではないと思う。また目にすることも同様に危険。わたしのところには「クラスで五番目くらいの美人と目が合った瞬間に、脾臓が千切れてしまい入院した」という悲しい高校生の例も伝わってきている。
少し話は横道にそれるけれど、脾臓の存在感を浮き立たせる策を練る前提として、駄洒落と見なし得る言葉の長さについて明確な線引きを行おうと思う。
たとえば、「電子レンジの中に玉子を入れ、布団をかぶせてしばらくしたら、布団が吹っ飛んだ。」という文は、駄洒落として成立し得る。「布団」と「吹っ飛ん」が似ているから。では音として似ていればすべてが駄洒落となり得るのだろうか。必ずしもそうは言えないだろう。たとえば、「蚊」と、終助詞の「か」は音はまったく同じだけれど、「成虫になった蚊にオルゴールで懐かしい音楽を聞かせれば、幼虫であるボウフラに戻ってくれるのであろうか」の最後の「か」は、「蚊」とかけてあると気づいてくれる人がはたして何人いるだろう。つまり、一文字では駄洒落として認知されにくい。では二文字の場合はどうだろう。「私はフライドポテトを食べて舌をやけどした」における、動詞「する」の連用形と完了の助動詞の「た」が合体した「した」と「舌」、これもまだ駄洒落として気づかない人が多いだろう。特に相づちの回数が不自然に多い人はもともと話を聞いていない場合が多いからなおさらのことだ。駄洒落が駄洒落として万人に認められるには少なくとも三文字は必要になってくる。
ひとまず三文字揃えば駄洒落になる。いまだに、テレビを見ていると、年老いた芸人が、自分の理解できない芸をする若手に接したときに「笑いの道は厳しい。一朝一夕には完成しない。」などと言いがちだが、現実はそうでもない。三文字合えばいいだけで、三文字あれば笑いを誘うに十分だ。
駄洒落に関しての考察が長くなったけれど、「三文字揃えば笑える」という事実を確認した上でわたしが言いたかったのは、「秘蔵の脾臓」という駄洒落だ。医者が腹部を切開して、脾臓を取り出すときに「秘蔵の脾臓」とマスク越しに発する。手術の緊張のあまり、唾液が煮詰まって濃い臭気を発するので、どちらかというと「秘蔵の脾臓」よりも、臭いという理由で周囲の人も笑うのかもしれないが、落ちぶれた臓器が放つ起死回生の一発にふさわしい笑いを提供できるのではないだろうか。

ロナルド・レーガンと犬

アメリカ第40代大統領ロナルド・レーガンが犬好きであったことは、犬たち以外にはほとんど知られていなかった。彼が大統領に就任したとき、全米の犬たちが、自分たちの時代がやってくると確信し、這いつくばって人間のご機嫌を取る暮らしもこれで終わりだと思った。有史以来、決して許されることのなかった二足歩行を大統領は許可するだろう。大統領の側近のジョンの飼い犬リッチーは、飼い主の名前の方がむしろ犬のようであることで雄犬たちに知られていたが、雌犬たちの間では、下半身の肉付きのよさが評判だった。彼の排便は、発達した下半身を見せつける、ある種のショーだった。彼は道路の真ん中を堂々と歩く。便意を催したら肛門を動かし、屁と糞を器用により分け、屁は誰にも気づかれないように少しずつ排出し、大腸の中が純度100%の糞になった瞬間、肛門の筋肉を一気に弛緩させる。糞は勢いよく飛び出るが、それが着地する寸前に後ろ足で路肩へと蹴り飛ばす。彼は流し目で、かつて自分の体の一部だった茶色い弾丸に別れを告げる。哀愁漂う視線が、雌犬たちをとりこにしたのだった。彼はその気になればいつでも二足歩行に移行することができた。発達した下半身のせいで、いつも前屈みで四足歩行をすることになり、頭に血がのぼって吐き気が止まらなかった。「レーガン先生が大統領になったので、この憂鬱な四足歩行暮らしも終わりだな」と、彼は友達に触れ回った。友人たちもこれに同意し、「Xデーはいつだろう」と話し合っていたが、内心は「リッチーは大丈夫だと思うが、自分は二足歩行に耐えられる下半身を持っていない。どうしたものか」と不安だった。
Xデーはクリスマスだった。大統領は祝祭ムードのどさくさに紛れて、犬たちに二足歩行を許可した。七面鳥を頬張りながらカメラに向かって手を振る大統領。その手には「犬たちも立っていい」と書いてあった。リッチーはそれを見た瞬間、二足で立ち上がった。自分でも驚くほど身長が高いことが判明し、飼い主のジョンを上回っていた。ジョンは直感的に「これからは私がリッチーのペットになる」と理解した。リッチーはジョンに犬小屋に入って待つように命じ、家の外に出た。外では犬たちが二足で歩き回り、メリークリスマスと言いながら抱き合っているはずだった。
しかし彼の予想に反して、犬たちは昨日までと同じく、四足で這いつくばっていた。運のよい犬は人間が食べ残した七面鳥の骨の随をすすっていて、そうでないものは公園の鳩をぼんやりと眺め、自分が鳩を華麗に捕まえている所を夢見た。
リッチーは溜息混じりに、二足歩行しない理由を聞いたが、彼らは、ムカデなどの多足類の話を持ち出し、四足でもかなりいい方だと主張した。結局のところ、彼以外に二足歩行できる者がいなかったのだ。
せっかく犬たちに配慮して二足歩行を許可したのに、実際に二足歩行をしたのは一匹だけだったという事実を側近に耳打ちされた大統領は自分の赤い顔に顔に泥を塗られた気がした。リッチーは犬を代表して、一輪車に乗って大統領に謝りに行くしかなかったのだった。(おわり)

仕切りなおしますね

先日まで書いていた東京タワーに関する小説は、あれからアップせずに書き終えました。すみません…
万が一読みたいと思われた方は、kokoroshaアットマークkitty.jpにメールしていただければ送らせていただきます。特に感想などは求めませんのでお気軽にどうぞ!

そして、今日から、短い文章をときどきアップすることにしましたので、引き続きご愛顧のほど、よろしくお願いいたします。