医者も笑えば患者も笑う。最近の患者は以前より、医者の「不謹慎だ」と言われる言動に関して寛容になってきている。その原因はテレビゲームにあると言われていて、ゲーム感覚での人殺しばかりが取り沙汰されがちだけれど、人生そのものをゲームと考えることにより、内臓をゲーム感覚で取り出される人もでてきている。取り出す方もゲームなら取り出される方もゲーム。まれに「芸夢」と当て字されることもあるゲーム。今のところ「ゲームの当て字が芸夢である」というのが正しいとされているものの、千年経ったらどうなっているかは定かではない。もしかしたら「携帯→ケータイ」のように「芸夢→ゲーム」と解釈されるかもしれない。そもそもテレビゲームはアメリカで発明されたけれど、世界一と言えるのは日本のテレビゲーム。後世に「芸夢」が語源とされる説が唱えられても不思議ではない質の高さだ。特に野球ゲームの出来は他の国の追随を許さない。それに対してアメリカの野球ゲームは、選手がガムを噛みながらバッターボックスに立っていた。教育上いかがなものかと思う。ただ、日本においてガムは食べ物だという考え方が一般的なので、「食べながら他のことをするのはマナー違反」と思ってしまうが、アメリカにおけるガムは、食べ物とは少し違ったリフレッシング・ツールか何かなのかもしれない。さすがにアメリカは優雅な国で、食べ物だけでなく、食べ物ではない何かもある。日本人は、『食いしん坊万歳』という番組があることからもわかるように、ガツガツ食べることしか考えていない野蛮人が多いのに比べ、アメリカは、ガツガツ食べることと断食することの間にはさまざまな段階があるようだ。
バッターボックスでのガムの是非はともかく、話をすすめると、アメリカの野球ゲームは、ガムが角張った立方体で表現されていた。日本ではガムを食べながらバッターボックスに立つという行為はよくないとされているが、日本人の道徳観が変わる、あるいはガム観が変わったあかつきにテレビゲーム上で表現されるガムは、美しい球状だと予想される。日本のテレビゲームはアメリカのそれよりも進歩しているのだ。
ゲーム感覚で内臓を取り出されるところに話を戻そう。
世界に名だたるテレビゲーム先進国の日本で、さらに諸外国に比べて進化していると言われているのが「被害者の側のゲーム感覚」。殺人の被害者ですらゲーム感覚なのだ。具体的に言うと、殺された側は、「やーらーれーたー」とゆっくり発音し、排水溝のそばで倒れ、うまく排水溝へ血を流しこみ、血が路上に広がりすぎないように配慮する。血が見えすぎるのはよくないとされている。なぜなら、血をたくさん見ると「あれ?これはゲームじゃなくて…現実?」となってしまうから。万一、排水溝から遠い位置に倒れてしまった場合は、「これは血ではありません。汗です」というごまかし方が必要になってくる。「痛い!」の代わりに「一ヶ月連続の真夏日だって!」と叫んでおく必要がある。これがゲーム大国ニッポンの国民の新しいマナーになっている。
しかし、そのマナーは十分に浸透しているとは言い難い。残念ながら被害者として「ゲーム感覚」を受け入れきれなかったAの例を紹介しよう。Aは、歌舞伎のことをよく知らないにもかかわらず新宿の歌舞伎町を歩いていた。文楽と歌舞伎の区別もつかない男が歌舞伎町を歩く。その行動から、Aがいかに、いわゆる「空気の読めない」男であるかがうかがい知れるというものだけれど、現在、歌舞伎町ではその名称に反して歌舞伎が上演されることはないのだから、その意味では「空気を読めない男が空気を読めない町を歩いている」ということになるのかもしれない。
彼の身なりも、到底人に愛されるものではなかった。何度も洗ったせいで丈の短くなったトレーナーとチノパンの間から背中が常に見えていた。背中には細かい毛がビッシリ生えていて、毛はそれぞれ別の方向を向いていた。歩くたびに毛が揺れて向きを変え、一歩踏み出すごとに別の模様が背中に描かれるのだが、その模様が、あるときはトラが自分の子を食べているシーンだったり、あるときはカレイが汽水域をはるかに超え、体内の浸透圧の調節に苦しみながら体をフグのように膨らませ川を逆流するシーンだったり、いたたまれないものばかり。ただ、背中の毛の流れに何を見いだすのかというのは、ロールシャッハテストのようなものなので、むしろ不快なのはそれらを見出したわたしの精神なのかもしれない。少なくともわたしとAの相性は、あまりよくないだろう。