世界ナントカ協会の恐ろしさ

東京都央央区―わたしは今、とびきり粋な名前の区に住んでいる。人にそう言うと「東京二十三区の中に央央区なんて名前の区はないんじゃないか」と言い返されることが多い。しかし、二十三区を数え上げてみると、誰しも五〜六区くらい思い出せない区があるはずで、その中の一つに央央区があると思えば問題ないだろう。それでも納得がいかないのであれば、今度は自分の体について考えてみればいい。人体の臓器を表すのに五臓六腑という言葉があるけれど、大部分の人は、心臓、肺、胃、大腸、小腸…このあたりで挫折するに違いない。自分の体ですら、すべてを把握するのはなかなか難しい。人体についての理解を深めるために、ひとまず脾臓など普段話題にのぼらない存在にスポットライトを当ててみよう。脾臓を悪くするような食べ物を皆が積極的に口にし、脾臓のありがたさを知るようにすれば、脾臓の存在感を浮き彫りにすることができるのではないか。たとえば、甘辛いものは脾臓を蝕むと言われている。また、熱くも冷たくもない食べ物もよくない。つまり脾臓にはどっちつかずのものを受け入れると、左右に震える性質があり、多少の中途半端さなら、小刻みに震える程度で、「可愛くて、身体の外に出してポーチか何かみたいに携えるとオシャレかも」と思えるのだが、「手打ち風うどん」「ピザ風焼きもち」ほど中途半端になってくると大きく揺れ、千切れてしまう場合もあるそうだ。中途半端なものは口にするべきではないと思う。また目にすることも同様に危険。わたしのところには「クラスで五番目くらいの美人と目が合った瞬間に、脾臓が千切れてしまい入院した」という悲しい高校生の例も伝わってきている。
少し話は横道にそれるけれど、脾臓の存在感を浮き立たせる策を練る前提として、駄洒落と見なし得る言葉の長さについて明確な線引きを行おうと思う。
たとえば、「電子レンジの中に玉子を入れ、布団をかぶせてしばらくしたら、布団が吹っ飛んだ。」という文は、駄洒落として成立し得る。「布団」と「吹っ飛ん」が似ているから。では音として似ていればすべてが駄洒落となり得るのだろうか。必ずしもそうは言えないだろう。たとえば、「蚊」と、終助詞の「か」は音はまったく同じだけれど、「成虫になった蚊にオルゴールで懐かしい音楽を聞かせれば、幼虫であるボウフラに戻ってくれるのであろうか」の最後の「か」は、「蚊」とかけてあると気づいてくれる人がはたして何人いるだろう。つまり、一文字では駄洒落として認知されにくい。では二文字の場合はどうだろう。「私はフライドポテトを食べて舌をやけどした」における、動詞「する」の連用形と完了の助動詞の「た」が合体した「した」と「舌」、これもまだ駄洒落として気づかない人が多いだろう。特に相づちの回数が不自然に多い人はもともと話を聞いていない場合が多いからなおさらのことだ。駄洒落が駄洒落として万人に認められるには少なくとも三文字は必要になってくる。
ひとまず三文字揃えば駄洒落になる。いまだに、テレビを見ていると、年老いた芸人が、自分の理解できない芸をする若手に接したときに「笑いの道は厳しい。一朝一夕には完成しない。」などと言いがちだが、現実はそうでもない。三文字合えばいいだけで、三文字あれば笑いを誘うに十分だ。
駄洒落に関しての考察が長くなったけれど、「三文字揃えば笑える」という事実を確認した上でわたしが言いたかったのは、「秘蔵の脾臓」という駄洒落だ。医者が腹部を切開して、脾臓を取り出すときに「秘蔵の脾臓」とマスク越しに発する。手術の緊張のあまり、唾液が煮詰まって濃い臭気を発するので、どちらかというと「秘蔵の脾臓」よりも、臭いという理由で周囲の人も笑うのかもしれないが、落ちぶれた臓器が放つ起死回生の一発にふさわしい笑いを提供できるのではないだろうか。