彼が上着を脱ぐと、たしかに彼の脇の下にはハンドバッグがあり、たすきがけにした紐が彼の身体を締め付けていた。よく見てみると、彼の顔は少し鬱血して赤黒くなっている。わたしはだんだん腹が立ってきて、この話の通じない男に一泡吹かせてやりたいという気分になってきた。このまま木村氏の家に行き、話がまとまっても、わたしは爽快な気持ちにならないんじゃないか?という気がしてきた。このワドルが何かしらひどい目に遭うのを見ない限りは―
単純に考えて、たとえば木村氏が、「あなたの言うことは理解できるし承諾するが、このワドルという男は何だね。いちいち腹立たしいことを口にする!」などと言って責めたててもらうのが最も労力を使わない方法だと思うけれど、木村氏が彼を気に入ってしまう可能性もないわけではない。
急に、木村氏に好かれるためにはどうしたらいいかについて気になってきた。そのためにはまず木村氏がどういうものが好きであるかを考える必要がある。わたしが引用したところから考えると、「木村氏は水っぽい水ようかんが好き」ということがわかる。このことから導き出せる仮説は二つある。
一つは「木村氏は水っぽいものが好き」という説。この説が正しいなら、彼は水びたしになった肉まんや、梅雨時に放置されたスナック菓子などが好きということになる。それならば話は簡単。このまま歩いていくと、わたし自身が汗まみれになるので、汗だくのわたしの顔を見ただけで、木村氏は満面の笑みをたたえ「ようこそ」と言ってくれることだろう。
もう一つは「木村氏は、本質的な物が好き」という説。これは理解しづらいが、「水ようかんと称するからには、水っぽくないと」という理論。彼が嫌うものは「黒い白鳥」などの、名前に反する存在で、さらに象形文字である漢字の成り立ちから説明すると、峰が三つではない「山」や、乳首のない「母」が嫌いということになる。わたしの名は藤原幸夫で、「幸夫」の部分は、幸せだと思うし、それが表情にも表れていると思うので大丈夫だけれど、「藤原」が難しい。まず、藤原氏の家系にふさわしくないといけない。わたしは小学生の頃は図書委員でありながらにして、学級委員のやる仕事まで引き受けていたりしたのだが、果たしてそれは、摂政や関白のような行動だったと言えるのかどうかはわからない。また、藤原の語義にさかのぼって、藤でできた原に自分が似ているかというと、顔色があまりよくなくて紫がかっているところはともかく、細かく連なる花弁に相当するような器官をぼくは持っていない。強いて言うなら、肺胞が連なる肺は近いのかもしれないけれど、わたしの肺は人一倍多くのものに覆われている。肋骨、皮下脂肪だけでなく、胸毛にも覆われていて、「ほら、この奥に秘められているのは、ぼくが藤原であることを示しているよ。」と言ったところで、誰も信じてくれそうにない。
そこまで考えて、いい案を思いついた。わたしの名前がわたし自身に似ていないのであれば、生物学上の分類と同じ名を名乗るしかない。つまり、わたしの名前を「人」にすればいいと思ったのだった。ぼく自身、猿に似ていると揶揄する人もいるけれど、種としてはヒトになる。いや、ヒトです。「○○になります」という日本語が近年、「○○です」の婉曲表現として使われるシーンが見受けられるが、無から急に○○が生成されるようで気持ちが悪いという人も多い。しかし、板橋区成増で行われている「なります祭り」ではそうはいかない。自分にとって都合のよい時代の日本語を「正しい日本語」として、今の日本語の乱れを自分の髪の乱れそっちのけで憂いている人も、祭りの日は、「〜です」を「〜になります」と言わねばならないから。たとえば、おつりとして「百円です」と言うよりも、「百円になります」と言った方が、無から百円が湧き出てきているような感覚があり、非常に縁起がよいとされているのだ。
わたしは人なので「人」という名前がしっくりくるし、さらに「人」という字の成立にさかのぼったとしても、そのフィット感はまったく損なわれない。まず「人」という字。俗説では、人と人が支え合っているのが人という字とされているが、実際は人が股を開いて立っているところを文字にしたというのが正しい。人という字が発明される前、庶民は性欲を一人で処理する方法をいまだ発明しておらず、相手を見つけて性交するしか手段がなかった。それによって無闇に人口が増えたときもあったのだが、人という字の発明により、庶民は砂に「人」と書いて、手軽なエロスを楽しむことが可能になった。京都では人文字焼きも行われ、庶民たちは下半身剥き出しでうっとりしながら人文字山を見ていたのだが、室町幕府の弾圧により「人」を「大」にせざるを得ず、現在の大文字になっている。今はエロチックな要素は皆無なのが残念なところだけれど―