保健所の玄関には、テロリストの役などを演じることが多い個性派俳優がほほえむ献血ポスターが貼ってあり、若者たちに献血を誘っていた。私の血は顕微鏡で見ると赤血球が止まっているように見えるほどの、いわゆる「ドロドロ血」だ。私の血が一度体についたら、洗っても洗っても落ちることはない。献血に見せかけたテロが可能なのだ。決して拭い去ることのできない血の刻印を受けた彼らにできることと言ったら、厚くファンデーションを塗ることくらいだろう。いったい被害者たちは月収の何パーセントをファンデーション代につぎこめばいいのだろう―わたしは自分のアイデアに戦慄した。
しかし、恐ろしい計画に気づくこともなく、保健所の人々は私をぞんざいに扱った。牛から乳を搾り取るような気軽さで太い注射針を刺し、私の血を抜き始めた。それだけでなく、注射歌のようなものを歌い始めたのだった。

血を抜くなら 男に限る〜
若い女は血管細く〜
何度も刺して穴だらけ〜
なのに懲りずにやってくる〜
血を抜くなら O型に限る〜
A型は注文うるさく
B型にはそもそも血液はなし〜

歌いはじめたときは、てっきり血を抜かれる苦しみを和らげてくれる歌だと思っていたのだが、実際はまるで逆、血を抜く側の面倒な気分を歌にすることで、職員たちの退屈を紛らわそうとしているだけだった。しかも、もっとも血に詳しい存在であるべきなのに、血液型占いという非科学的な占いを信じているようにも取れる。
私は血液型を発明した男、ソクラテスのことを思い浮かべた。偉人と呼ばれる人間の中で、ソクラテスほど血液にこだわった者はいない。彼が死の際に仰いだ毒杯は、血の色だったという。(不細工で有名な妻クサンチッペの血だという説もあるが、こんな説を唱えるのは日本人だけである。「クサンチッペ」が「臭い血」と音的に似ていることがその妄説の原因だというのが定説である。)
ソクラテスは、血の味が大好きだった。毎朝、地面が凸凹になっているところの近くを選んで座り込み、人が通ってつまずき、出血するのを日が暮れるまで待っていた。誰かが転ぶと手当てに駆け寄るふりをして、すばやく傷を指で拭い、手当が終わってから背中を丸めて座りこみ、指をじっくりと嘗め、味わった。その結果、血の味が人によって違ったり、違わなかったりすることに気づいたのだった。彼は何らかの形で血液を分類したいと思い、なにかいい記号はないものか…と思いを巡らせた。そして、思いついたのは以下の分類である。

・丸みを帯びた味→丸みを帯びた「B」という字で表す
・再び味わいたい極上の味→何度もくりかえす円環状になっている「O」という字で表す
・尖っていて舌のしびれる味→先が尖っている「A」という字で表す

かくしてソクラテスは、血液型とアルファベットを同時に思いついたのである。
私も素晴らしいものを発明したい。できれば、ソクラテスのように、二つの素晴らしいものを同時に思いつきたい。しかし二十世紀の今、どんな二つが残されているだろう?末期ガンの治療法と松茸の家庭栽培?これが可能だとしたら、「松茸が末期ガンに効くのだが、その家庭栽培がうまくいった」という流れになるだろう。はたして松茸は末期ガンに効くのだろうか―
そんなことを思いながらぼんやりしているうちに、ずいぶん血を抜かれた気がする。いや、そもそも、ぼんやりしていたのは、血を抜かれたことで意識が遠のいていたからかもしれない。
献血の経験のない人はなじみがないかもしれないが、そんなときのために、「増水くん」という人物がいる。人間は死ぬとき、三途の川を渡るというが、献血で意識を失ったときも三途の川が出てくることが多いらしい。しかし、献血で命を落としたということになると、以後献血する人は激減してしまうだろう。そこで「増水くん」というキャラクターが出てくる。三途の川に献血者が来ると、青いビニール袋を持ってはためかせ、増水していて到底渡れないように見せるのだ。これで献血者は「渡れないな」とあきらめ、踵を返した頃に、気付け薬代わりに与えられたヤクルトの味が口いっぱいに広がり、目を覚ますのである。
私は三途の川を見るほどではなかったのだが、彼らの乱暴な行いで我に返った。あと一ミリで外れるという寸前まで針を抜き、また針を刺し直すというのを素早く繰り返し、そのたび痛みが響いたのだった。私は痛みに耐えた。耐え抜いた。針が抜けたとき、私は不覚にも安堵の表情を彼らに見せてしまい、恥ずかしく思った。
私の抗議活動が効を奏したのか奏してないのかはわからないが、とりあえず神奈川県川崎市麻生区に央央区が統合されることはなかった。埼玉県草加市に関しても同じような経過だった。
ここで当然沸いてくる疑問として、一つの区が神奈川県川崎市麻生区と埼玉県草加市の二つと同時に区境を持つことは不可能なんじゃないか?というものがあるが、これは「物理的な区境」についてのみ考えた場合に出てくる疑問にすぎない。精神的な境目についても考える必要がある。なお、これは、央央区民だけの話ではなく、日本人、いや、地球人なら絶対避けて通れない問題だと言えるだろう―