「いらない」と同時に「是非ほしい」。まるでアイドルの歌のようだと思った。「大嫌い大好き」と似ている。「一見、相反する気持ちが実は一番近いところにある」的な言い回しは、何百万人もの人が、あたかも自分が思いついたかのように「意外だけどそれが真実。人間って不思議な生き物」というニュアンスをこめて口にする。わたしはなぜか、そういった「意外な法則」について訳知り顔で解説されやすいタイプなのだけれど、他にも、「腕時計についての認識は恋人についての認識を表す」という話をされることも多い。根拠のない話だと思う。「いつもつけているのはちょっと面倒」というと「恋人の存在がちょっとうざったいと感じていますね?」といった言い当てが行われることが多い。これは、どんな発言も色眼鏡で見れば、恋人のことについて語っているように見えてしまうという原理を利用したトリックと言える。ただ例外はある。たとえばこの、クビにされた瞬間採用されたマネージャーは、メガネをしていたが、メガネがずれていないのに、似顔絵にされるときは必ずメガネが片方ずれているように描かれそうなほど、空気の読めないタイプに見え、彼ならきっと「腕時計についてどう思う?」と聞かれたら、「金属のところに垢がたまっているところとそうでないところがある」などと答え、恋人の話を絡めて深層心理をえぐり出そうとしている人をガッカリさせることだろう。
そんなマネージャーの採用を瞬く間に決めたタレントは、マネージャーの才能に惚れて採用したというよりも、自分の決断の早さを世間に伝えたいようだった。たしかに「即決」というイメージは現代的だと思うのだけれど、かわいそうなのはその即決タレントについ先ほどまで雇われていた元マネージャー。無能な男にマネージャーの座を取って代わられたのだから。
 元マネージャーは、クビになったあと、ぼんやりと中吊り広告を眺めていた。その広告には「スローライフリバイバル」と書いてあった。スローライフが、いつの間に廃れていたのか、そしてスローライフに取って代わったのはどんな暮らしだったのか、ファーストライフなのか、それとも、スピードとはまったく関係のない、たとえば、常に生乾きの洋服を着ることを大事にする「ウェットライフ」なのか、まったく見当もつかなかったが、彼にとっては突然降って沸いた無職という状態を受け入れる口実として「スローライフ」は口当たりのよいものだったと言えるだろう。わたし彼のスローライフがうまく行くことを祈りながら、木村氏の住むという大塚で降りた。
わたしにとって、大塚で降りたのは生まれて初めての体験だった。大塚はタバコの町として有名だという話を誰か有名な作家が書いていた気がする。ただ、その作家はヘビースモーカーらしく、何でもタバコに結びつけないと気が済まないようで、有名な女性の手の指を「まるで上質のタバコのように細くて…」とたとえたり、気に入らない女性の足の指を「まるでシケモクのように短くて黒ずみ…」と書いたりしていた。彼にかかれば日本の町すべてがタバコの町なのかもしれないな、と思って改札を出ると、タバコ屋はどこにも見あたらない。木村氏の家はタバコ屋の角ということだったので「タバコ屋が多すぎたら困るな」と思っていたのだけれど、まったくないのも困りものだ。近くを歩いている、何も口にしていないのに、口許がタバコをくわえたときみたいに歪んでいる男に聞いてみた。
「そこをまっすぐ行けば、タバコ屋がありますよ。ただ、もうタバコっていう時代でもないと思いますけどね。」
と意味ありげな言葉を残して去っていった。目印になるタバコ屋の角を曲がると、十メートルほど先に、表札に「木村」とある家を見かけた。まさにこれが木村氏の家。しかし、タバコ屋のことも気になってきた。なぜなら、近年の禁煙ブームのあおりを受けているであろうタバコ屋の「次の一手」がどんなものであるか知りたいと思ったから。
「こんにちは。タバコに全然興味がないのですが…何かもらえます?タバコに代わるような何かを。」
タバコ屋の男は答えた。
「あー最近そういう人が増えてきていてねぇ。スタイリッシュで、ちょっと体に悪くて、臭いものってことだよね…最近はくさやスティックがよく売れてるけど。」
スティックを手に取りながら、なるほどと合点した。くさやのタンパク質が腐った匂いは、タバコをはるかに超える臭さであり、歩きながら吸っていると、タバコよりも迷惑になることは確実だ。形状も、だらしなく紙に巻かれているタバコとは対照的に、念入りに干し固められ、非常にスマート。これなら、タバコの代替品としては十分、むしろタバコよりも優れている点が多いと思ったが、少し気になる点があった。
「くさやは健康食品であると言われていますよね。健康を害することが重要な魅力の一つとなっているタバコと比べると、この点では見劣りしてしまいますよね。」
とわたしが反論してみると、タバコ屋の男は、奥から一冊のパンフレットを出してきた。その縦長のパンフレットには「むしろ毒薬こそ口に苦し」と大きな字で書いてあった。
「最近、『臭いものや不味いものがむしろ健康にいい』というムードが広まっているが、おかしいと思うんだよ。『良薬は口に苦し』みたいなことを涼しい顔で言う人も多いけれど、口当たりの悪いものがすべて良薬であるとは限らない。たとえば、塩酸は飲むと口当たりが悪いじゃないか。たぶん舌も喉もビリビリすると思うんだけど。本当は、口当たりのよくないものは危険だと思うべきなんだよ。」